知覚の森へ
あたり一面に広がる花畑の中にいる。
目の前の眩いばかりの圧倒的な黄色の花の世界に心を奪われる。
それぞれの花の輪郭は曖昧になり色の塊が網膜にやきつく。
その記憶が残像を伴い目蓋の中で心の内と外を行き来する。
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私の絵に描かれているイメージはきわめてシンプルである。それは具体的に語り過ぎないほどよい。またその像は、自然世界になくてはならない。基本的には、花芯や風景画シルエットとして描かれているだけである。そしてその表面は描かれている視覚的イメージとは別に、記憶の中にある手触り(触覚)や味(味覚)、匂い(嗅覚)という視覚以外の知覚に積極的に働きかけるように多重の透層で被われている。
物質としての表面が記憶の奥底に眠る知覚を喚び覚ます。
そこには概念で語られることも技術も必要としない。
私は質感に対して大変興味を抱いている。いや、興味という以上にある種の脅迫観念なのかもしれない。質感−それは自然の皮膚であり、変容する光とともにある。
そのありようとともにミクロとマクロを往復し続けること。
私をとりまく視覚をとおして得られる光の情報−眼に見えているかたちや色−それらはどこまでが現実であり、どこまでが私自身の脳が創り上げた幻影なのか。
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造形芸術作品は見ることを前提として語られてきた。また近年、CGによる仮想世界や速度を増す映像情報など、視覚を中心とした表現や情報伝達技術は、より発展、多様化しつつある。しかし、視覚情報に頼りすぎることによる、見る側の想像力・視覚以外の知覚の鈍化も否定できない。視覚以外の知覚(触覚、味覚、嗅覚等)を積極的に刺激、誘引することにより、見ることをとおして認知される情報と他の知覚の関係、視覚情報と記憶の関係を探ることは、見ることの曖昧さ不思議さを誘い出し、大変興味深い
皮膜2004-千の光
京都の東山に蓮華王院という名の天台宗の寺院があり、本道の内陣の柱間が三十三あるため三十三間堂と呼ばれている。この長大な堂内には圧倒的なまでに埋め尽くすよう1001体の千手観音像がある。
−静寂とともに鈍く輝く金色の千の光、無限に拡張する精神とともに共有するその深淵なるコスモロジー、
語りかけられる世界に繋がる光、見ることを超えた知覚体験−
この場所には、過去に何度か訪れている。そして「皮膜」の連作を描き始めた数年前、この前で「目の前を覆い尽くすような1000枚の『皮膜』で組み作品を創る。」と強い思いが湧いたのをはっきりとはっきりと記憶している。特に宗教的な意味合いはない。1000という圧倒的な数の持つ力、内包する光、「皮膜」の描こうとしている見ることをとおして繋がる世界に重なったのである。
1000の「皮膜」をとおして、そして見ることをとおして、目の前に広がる絵の世界を超えた何かを体験してもらえればと願っている。
片山雅史(2007) Masahito Katayama All Rights Reserved.
2004年